《エネルギーボディー(サトルボディー)とチャクラについて 第76回目の原稿より 第6身体(コズミック体)―1》
マウントフジフラワーエッセンスからみたエネルギーボディー(サトルボディー)、エネルギーワークをテーマに、今回からは、第6身体(コズミック体)について、書いていきたいと思います。
エネルギーボディー(サトルボディー)についてのお話というものは、そうしようと思えば、どんどん複雑に展開していけるものです。でも、知識や情報を集める事でマインドは満足しても、存在の深みが揺さぶられ、響いてくるかという点では?であったりする事もあるかもしれません。本質へと近付く事を学びながら、本質とは違った領域を満たす情報が膨れ上がって、溜め込まれた先入観や“知っている”という思い込みが、生まれたての体験を遠ざけてしまうのです。
とりわけ高位のエネルギーボディー(サトルボディー)の体験や理解は、知識を溜め込む事で進んでいくといった事とは、関係のないものです。それらの中で絡み合っている事は、そこから出て認識する気づきの眼の存在を、忘れてしまいます。
第6身体(コズミック体)は、第5の次元への同一化をも超えていく次元です。言葉や個を超えたこの次元を、言葉を通して、どうやって表現出来るのでしょうか。古からの光明を得た人々(自称でなく)も、表現する事が難しいと言われるこの領域を。
第5の次元は、輪廻転生の縛りから自由になっていく、覚醒と解脱の次元。輪廻転生する個々の人格に同化しない、「本当の自分」を体験する次元です。それは、個別な人格として認識している“私”という感覚が消えた先に広がっている、空のように広大な「私」の存在感です。それは、「私」とも言えるでしょうし、“私”が消えてしまい「私」という表現の響きが馴染まない存在感、であるとも感じています。
第5身体(スピリチュアル体)の時に書いたように、こういった第5の次元を、私達は、瞑想を通して、あるいは偶然の出来事がきっかけで、体験する事があります。
輪廻する個としてのエゴを超えた、魂としての自分。ポジティブとネガティブという二元性の中で作用する「バッチ博士のフラワーエッセンス」を開発したエドワード・バッチ博士は、エゴ、ハイアーセルフ、魂についての事も書いていました。
二元性の世界から、第5の次元の自由へと思いを馳せる事。「大海」の一部としての、「一滴の水滴」である「私」。
長年、「バッチ博士のフラワーエッセンス」を扱う中で、二元性の概念で作用する「バッチ博士のフラワーエッセンス」が、二元性を超えた次元へと届いていく潜在力に着目してきました。そして、二元性の距離を超えた次元へとエネルギーを浸透させる「エネルギーペネトレーションペンダント」を開発し、今年から講座や個人セッションで活用しています。
和の国で誕生したマウントフジフラワーエッセンスは、二元性の世界に作用しながらも、意識を置く核は、二元性から飛翔した次元をスタートとして、そこから更なる高み(深み)へと開いてもいきます。
そういった事から、前回書いたように、マウントフジフラワーエッセンスは、自分を取り巻く環境や人間関係が変わる等、特徴的で印象深い現象が起こったりもしますが、サイキックを主眼としたフラワーエッセンスでもありません。
第5身体(スピリチュアル体)より更に微細な第6身体(コズミック体)の次元になると、「大いなる大海とその一部である水滴」といった、ある種の個別性や対比さえも消えてしまいます。内的小宇宙と外的大宇宙、しずくと大海といった関係の在り方そのもの自体、全く意味をなさなくなるというか、在り得なくなります。
第6の次元の大宇宙そのものの内で、映し出される第5の次元の水滴は、いないのですから。
第6の次元と関係するのは、第6チャクラです。第6チャクラには様々な層がありますが、たくさんの神秘的で魔術的な能力が、一般的に知られています。そういった第6チャクラの性質を活用している領域も、あるかと思います。
その一方、瞑想、意識の究極の可能性といったところからみると、そういった側面こそが、古からの様々な伝統的修行の多くが、更に上昇していく事に壁を作ってしまう危険性について語り、この次元を扱う事を禁止している理由のひとつだと言えましょう。
それらに巻き込まれてしまうと、第6チャクラが固定され、本質でないものに焦点を合わせ続ける事になります。たとえ対象が変わっていったとしても、それは変化といったものではなく、同化にひっかかっているという視点では、固定され続けていると言えるでしょう。
知識、記憶、信念、体験、現象といったものは、内側にあっても外側にあったとしても、どのようなものであれ、「対象」なのです。
この次元の様々な層に同化する事なく気づいている質、気づきの源が、第6チャクラの可能性としてあります。
(つづく)
《エネルギーボディー(サトルボディー)とチャクラについて 第77回目の原稿より 第6身体(コズミック体)―2》
今回も、第6身体(コズミック体)について書いていきましょう。
第6の次元と関係する第6チャクラの魔術的パワー、見えない世界を見る能力は、このチャクラの部分的な機能です。特別な力だと思えるかもしれないこの能力も、第6チャクラが持つ広大な潜在性から見ると、狭い範囲のものなのです。
制限された領域では、第6チャクラのエネルギーの眼は、望遠鏡のように、あるいは、仮面に開けた小さな覗き穴の眼のように働きます。狭い対象だけに焦点があたり、それ以外は、視覚の外の闇の中にあるのです。
例えば、クライエントのエネルギーボディー(サトルボディー)や過去世といった神秘的な領域において、見えたものを話す時、それ以外は視野の外にある為、話を聴いている目の前のクライエントに、今、何が起こっているかが、見えていなかったりするのです。話を聴いた事によって、今この瞬間、クライエントは、エネルギーが委縮しているかもしれないし、不安や恥ずかしさを感じているかもしれないし、深く傷付いているかもしれません。
もっと極端にバランスが崩れた状態になると、見えない主観的世界は見えていても、眼の前の現実世界が見えていないといった事もあるでしょう。
これは、サイキックがよくないという事ではなく、そこだけに焦点が固定されてしまっているかどうか、という事がポイントなのですね。
起こっている事の全体像が見えていない時、そこから出て来る、今、最も尊重する行動に結び付く事も難しくなります。
私達が何かを凝視する時、限られた範囲や近距離で見る時、対象しか見えなくなります。そして、その対象は、強調されるのです。肉眼もエネルギーの眼も、同じです。何であれ、注目したところは、その力を増した姿で視野に戻ってくるのです。そして、見たくないものは視野の外に隠され、“なきもの”となります。これが、自分自身や外の世界に、狭く一元的な判断、決め付けを起こさせる事もあるでしょう。まさに、「近視眼的」、「視野が狭い」といった具合に。
セラピーやカウンセリングの領域で意外と陥りがちなのが、仮面の覗き穴の眼を通して一生懸命問題を見つめる事で、必要以上にそれを大きなものにしてしまう事。また、問題を頑張って見つめているという行為そのもの自体に、「正しさ」や「優位性」を置く事が徐々に主となっていき、ますます苦しむ為のそれと同化し、ある種の気持ちよさを感じてしまう事も。それによって、プロセスを長引かせてしまう事もあるでしょう。
例えば、セラピストの視点が、第2身体(エーテル体)や第3身体(アストラル体)のエネルギーの動きに固定されていると、こういった同化が起こる事があります。
高位のエネルギーボディー(サトルボディー)の次元では、下位のそれとは意識の在り方が変わってくる事から、また、ひとつの表現の背後に幾重もの意味合いが含まれている事もある事から、言葉や思考で意味を見い出そうとすると、矛盾や混乱を感じる事もあるかもしれませんが、お話を続けていきましょう。
“問題”は、私達の第6チャクラの視点が自他の下位のエネルギーボディー(サトルボディー)のエネルギーの動きに固定され、それを問題だと認識した時、“問題”になります。また、問題の大きさ、小ささは、それを見ている私達の認識の眼が測り出すのです。
何かに対する特定の見方は、無数にある見方のひとつであり、それはいつでも変化する可能性を持っています。距離、角度、光をあてる領域を変えて見たなら、違ったものが現れ出てくるかもしれません。問題が、ギフトや宝に変化する事もあるでしょう。
例えば、フラワーエッセンスを使う時には、自分自身を深く見つめ、気づきのプロセスを突破しなければならないというのも、ひとつの見方です。もっと気楽に使いたいというのも、ひとつの見方です。
他の見方が自分の視野に入る事を許さないのは、自分の固定化された眼差しであり、眼差しに同化している自分です。内と外に様々な見方が存在するのを許す事で、視野は広がっていきます。視野の広がりと共に、人生での体験の機会の幅も広がり、この世界の多様性を許し、豊かに生きる事へとつながっていくでしょう。
でも、本当は、それ以上の可能性が、この次元にはあります!
視野の角度も、距離も、幅も、自由自在に変化していい事に気づいたならば、多彩な世界を、その眼に招待する事が出来ます。視野が見る対象が、柔軟に変化してもいい事を知ったならば、人生はより生き生きとしてきます。
では、そんなふうに見ているのは、一体誰なのでしょうか?
様々な異なった見方がある事に目を向け、認知の視野を広げる事は、セラピーの領域で行えますし、それによって心身の調和を取り戻したり、自分らしさを見い出したり、人生を変えていくといった、素晴らしい作用があります。
そこから更に、その変化や多彩さや動きの中で生きていながら、同時に、そこから自由である次元というものがあります。それは、セラピーやその教育といった次元にいてセラピーや教育を行う事からは、届く事のない領域です。
それが、マウントフジフラワーエッセンスのセッションにおいて、大切にしている在り方にもつながるものです。
(つづく)
《エネルギーボディー(サトルボディー)とチャクラについて 第78回目の原稿より 第6身体(コズミック体)―3》
マウントフジフラワーエッセンスからみたエネルギーボディー(サトルボディー)、エネルギーワークをテーマに、今回も、第6身体(コズミック体)についてのお話です。
天と地という分離から飛翔する第5から上の次元では、分離のある下位の次元では有効だった知識や情報や言葉、そして、それらを使って学ぶ、教育するといった+の行為は、役立たなくなっていきます。+で得たものに同化する事で、第5の次元、第6の次元の可能性へと、開いていけなくなってしまうのです。何もない次元を+の増大で埋めて理解しようとすると、マインドは混乱し、精神のバランスを崩してしまう事もあるかもしれません。
また、天と地の真ん中の第4チャクラから上の次元には、天から下の世界をとりまとめるという役割があります。上位チャクラの最初の座である第5チャクラ、あるいはそこにある5つのリングが、下位のエネルギーボディー(サトルボディー)とチャクラを監督するというお話は既に書きましたが、第6チャクラもまた、その内なる眼で、第5チャクラを含む下位の次元を観察するのです。
第6チャクラは、下位のチャクラやエネルギーボディー(サトルボディー)に、気づきの光を投げかけます。この気づきの光は、第1〜第3の次元の調和、そして、第4の次元の天と地の橋架け、第5の天への飛翔があってこそ、その潜在力を現す事が出来るのです。
下位の次元の不調和から第6チャクラを使うと、パワーゲームに陥ったり、限られた領域に囚われたり、精神的なバランスを崩したりといった事が起こる事があります。それこそが、前回のお話のように、見る事の制限でもあると言えるでしょう。そこでは、望遠鏡や仮面の覗き穴の眼から見るように、見る光が、レーザービームのように、ある次元に囚われてしまっているのです。
第6チャクラは、望遠鏡や仮面をはずした、制限のない気づきの光線です。様々な層に同化する事のない気づきの源が、第6チャクラの可能性としてあります。
第6チャクラの機能は、サイキックな眼で外側を見る事ではなく、本来は、内側を見る事だと言われています。
肉眼の2つの眼は、瞼を外へと開き、外側の世界を見る事が出来ます。それに対して、第6チャクラの第3の眼は、エネルギーを内側へと向け、自分自身やより深い世界を見る事が出来ます。肉眼の2つの眼では見る事が出来なかったものが、第3の眼では、見る事の対象となっていくのですね。
個人的には、「内側を見る事」というこの美しい表現も、第6チャクラの広大な可能性を表すには、まだ充分でないという感覚も受けます。
天と地の分離から魂が自由になる第5の次元、そこから更に水滴と大海という分離がなくなる第6の次元から表現すると、内も外もないところで、全体に気づいている事だと表現するのがいいのでしょうか・・・。
第6の次元では、ひとつひとつの人格という分離や引力から自由になった小宇宙の水滴は、大海へと消えてしまっています。大海は、1滴1滴の水滴を分離した存在として見る事はありません。対象のないそこでは、対象のひとつひとつに縛られる事は起こらないのです。
言葉では表現出来ない、大海自身である事の意識の眼差しとは、どのような感覚なのでしょうか。それが、第6チャクラの、見る事の本来の可能性とつながっているのではないかと感じています。見て在る事の眼差しそれ自身へと、戻っていくような。
そこには、視点の次元のシフトがあります。
肉眼は、外側の世界、表層の世界、時空に制限された世界を見る事が出来ます。
第3の眼は、内側や、表層の下に隠された世界を、時空を超えて見る事が出来ます。
思考、感情、物事の捉え方、役割、外見、信じ込み、チャクラ、エネルギーボディー(サトルボディー)、そして、その元となった知識や記憶や体験も含め、それらに同化されない第3の眼では、それらは、その眼差しの光線に照らし出される、見る対象となるのです。
外側の2つの眼で見るものが、自分と分離した対象であるように、内なる眼で見ているものも、対象となります。
内なる眼で見る事が出来るものもまた、自分ではないのです。思考も、感情も、記憶も、チャクラも、エネルギーボディー(サトルボディー)も、自分ではありません。
この内なる眼で見渡す全体には、全体を見渡している者も含まれています。
そこでは、見るという行為からの同化もはずれた、気づきがあります。意識、観照、在る事と呼ばれるような。
それは、知識や教育といった+の行為で積み上げ、成し遂げ、獲得していけるものではありません。例えば、第6チャクラで見ているのに、チャクラが自分ではないとなると?頭がこんがらがってきそうですね。頭が理解しようとするものは、いつも対象なのですね。
観照、在る事は、「個」が所有するものではないのです。
そんな体験に少しでも触れそうな瞬間、私達は、大海へと溶けている事への扉に、ほんのちょっとだけ触れようとしているのかもしれません。
マウントフジフラワーエッセンスの講座では、技法という行為を学びながら、行為とその背後にある在り方へと開いていく事を体験します。下位の次元の変化や豊かさを受け取る事と同時に、ただ在る事にも触れています。技法を学ぶといった+の獲得が表層にありますが、深いところには、瞑想、伝達に近いものがあるとも言えるかもしれません。
誰もが元々つながっているところへと入っていくのに、何かを持っている必要はないですし、何かを持っている個人も、必要ではなくなるのです。
(つづく)
《エネルギーボディー(サトルボディー)とチャクラについて 第79回目の原稿より 第6身体(コズミック体)―4》
マウントフジフラワーエッセンスからみたエネルギーボディー(サトルボディー)、エネルギーワークをテーマに、今回も、第6身体(コズミック体)についてのお話です。
どこにも到達したり、上昇したり、放棄したりする必要のない、そのような思いも、方向性も、敷居も存在しない、大海そのものである第6の次元。それは、個や比べるといった事が成り立たない次元です。
子宮という卵が割れて、この世界に個が誕生する第1の次元。
輪廻転生する人格としての個の幻想が割れ、小宇宙の魂の水滴へと開かれていく第5の次元。
水滴が割れ、大海へと消え去り、水滴という意識がなくなってしまう第6の次元。
瞑想、あるいは、高い意識の海の中に招かれ共振している時、私達は、高位身体の次元を体験する事があります。
エネルギーボディー(サトルボディー)の分類において、高位身体の次元、例えば、第5身体(スピリチュアル体)と第6身体(コズミック体)の違いといったものを、低位上位といった三次元の階層的な発想から理解しようとすると、曖昧なものになってしまうかもしれません。また、知識だけでそこに意識が寄り添っていないならば、分断の中で飽和し、混乱し、内側のスペースを収縮させていく居心地の悪さとして、内なる存在が偽りを嗅ぎ取る事もあるでしょう。
秘教的な知識に精通していれば、第6の次元について、いわゆる情報を提供する事は出来るでしょうが、そこには、真実の香や伝達は起こらないのですね。何故なら、それは、新しいものを獲得するといった事とは、全く違うからです。
何であれ、体験がこの世界で意識化されていないものは、想像でしかないというシンプルな事実は、現実の世界でも高次の世界でも、同じなのかもしれません。
また、時には、高位身体の体験が、肉体を持った個として、地上の時間に足並みを揃えて泥臭く生きる事に、ある種の面倒くささを感じてしまう事もあるかもしれません。そんな時、私達が、上と下の両方とつながっている上で、第4のハートの次元は大切です。ここに碇を降ろしておく事で、両方の愛しさとつながっていられるし、地上での天命を全うしていけるのですね。
ハートからスタートする事、そして、深みの体験の後でもハートに在る事。それが、私達の天と地のトータルな道のりを、援助してくれるのです。
ここでは、第6チャクラとマウントフジフラワーエッセンスのセッションについて扱いながら、進めていきましょう。
第6の次元と対応する第6チャクラの「見る事」の深みは、対象(見えるものでも見えないものでも、過去でも未来でも)を見たり、方向性があったりというより、とらわれのない、意味付けやラベル貼りのない、ただ、気づき、観照と言った方が、しっくりくるような気がしています。
第6チャクラの気づきの次元では、地から天へと上昇していく感覚も、小宇宙の中心の全体であるという感覚の微妙な淵も、消えてしまって、ただ、大宇宙が在る、とでも表現していいのでしょうか。あるいは、様々な感覚が起こっていてもいなくても、それによって触れられる事のない臨在感。それは、在るという感覚のようでもあり、在らないという感覚のようでもあります。
第6チャクラの気づきの純粋さの中では、対象を選ぶ事、とらわれる事のない、高い意識の状態があります。言葉がやって来たら、たちどころにそこからズレてしまいます。
・・・高位身体になるにつれ、ますます言葉で表現出来なくなっていきます。
そんな気づきの中に在りながら、同時に、現実の二元性の動きの世界にいる事を、マウントフジフラワーエッセンスのセッションでは、大切にしています。
セラピストは、セッションの場の提供者として責任を持ち、目の前のクライエントに寄り添い、実際的、現実的でいます。
そして、様々な次元でエネルギーをリーディングする時、そこには、クライエントのエネルギーボディー(サトルボディー)やチャクラの状態、感情の癖、行動パターン、今いる環境、過去世やトラウマ、個性や長所、可能性といった、様々なものが見えてきます。それらに対して、マウントフジフラワーエッセンスを媒体に、ヒーリングが起こってくるわけです。
と同時に、起こっている動きの世界に同化せず、ただ、目撃している状態があります。何の意味付けも、何の質もなく見る事が起こっている時、クライエントの感情の滞りも、根深い信じ込みも、ショックやトラウマも、前世やカルマも、チャクラのアンバランスも、それらを凝縮して閉じ込めている状態も、幻のようなものでもあると気づいています。
同化をも含めて観照している事は、クライエントの同化を緩め、過去への凍結を溶かしていきます。そんな時、クライエントに、未知なる何かに触れている不思議な感覚や、今迄とは違った「見る事」の感覚が生まれる事があります。あるいは、それは、表面では認識されない事もあるでしょうし、眠ってしまう事もあるでしょう。
いずれにしても、そんな時空を超えた次元でクライエントと出会う時、境界のない、形のない大海としても出会っているような感覚になります。それは、何があっても、何をしても、何者によっても、決して損なわれる事のない、誰もに浸透している何か。ワンネスという表現だとちょっとそぐわないような、求心力や動きなく、無限に広がる、ただ在るといった感覚と言えるでしょうか。
そんなマウントフジフラワーエッセンスのセッションは、エネルギーワークではありますが、マジックでもサイキックでもなく、むしろ空気のように普通な、スペースのようなものだと言えるのかもしれません。
そして、そんなマウントフジフラワーエッセンスのセッションは、ハートがあらゆる次元へと碇を降ろしていてくれる事で、全体性として成り立っているのです。
(つづく)
《エネルギーボディー(サトルボディー)とチャクラについて 第80回目の原稿より 第6身体(コズミック体)―5》
マウントフジフラワーエッセンスからみたエネルギーボディー(サトルボディー)、エネルギーワークをテーマに、今回も、第6身体(コズミック体)についてのお話を続けていきましょう。
前回、第6チャクラの次元から「見る事」について、マウントフジフラワーエッセンスのセッションでのセラピストの在り方に対応させて、書いていきました。今回も、それらを例にして、続けていきたいと思います。
肉眼で見る時、私達は、やって来る様々な情報に揺れ動き、エネルギーを消耗します。それに対して、第6の次元の内なる眼の機能は、行為としての「見る事」ではない為、「見る事」によって、消耗は起こりません。
第6チャクラを活用したワークをして、もし、とても疲れるといった場合、第6チャクラを肉眼のように使ってしまっている可能性があります。見る事により、オーバーロードしたり、たくさんの集中したエネルギーを放出したりして。
部分的な第6チャクラの能力だけでなく、本来の可能性にもっと開かれていったなら、サイキックなリーディングをしたとしても、疲れるといった事はなくなってくるでしょう。
第6チャクラで見る事、内なる眼が明らかにする内なる光は、一元的な360度の方向性ではなく、選んだものだけをスポットライトのように照らし出すわけでもなく、下位のあらゆる次元になじみ、それでいて、そこに同化して揺れ動く事はないのです。
第6の次元と対応する第6チャクラの「見る事」は、気づきであり、観照であり、ただ在る状態です。それは、肉眼の眼のエネルギーの流れ方とは、違ったものです。
そんな「見る事」を大切にしているマウントフジフラワーエッセンスのセッションでは、情報を蓄積した部分的な眼を養うのではなく、眼の固定から自由になっていく事を体得します。
「講座に参加したいんですが、自分はオーラやチャクラを見る能力がないし、過去世を思い出した事もないんですが、大丈夫でしょうか・・・」と心配される方もいらっしゃいます。でも、マウントフジフラワーエッセンスは、それらの行為を最終ゴールとして見立てていない為、気にされる必要は全くないのですね。
マウントフジフラワーエッセンスのセッションでは、見るという行為を通して見えて来る、様々な部分に主軸を移動していくのではなく、選ぶ事のない気づきとしての「見る事」が大切なのです。
その移動しない次元に在って、起こる事に寄り添い、くつろぎの中でセッションが流れていく時、必要なものは自然に紐解かれ、何らかの表現方法を通して、ひとりでに現われてきます。沈黙と流れの両方に立ち会っているそのスペースは、疲れや混乱に巻き込まれる事の引力圏外にあります。
見えるものであれ見えないものであれ、肉眼であれ内なる眼であれ、セラピストがクライエントの内外に見たものに同化する時、クライエントにも、同化が伝染されます。それは、時には、何年もの間、セラピストがそうであるように、クライエントのエネルギーフィールドを固めるようにコーティングし、彼等自身と人生に制限をかけたりするのです。
ただ在る事のスペースは、クライエントのエネルギーが緩み、様々な同化の檻から外に出て、違った次元で見通す事を招待している、広大な部屋のようなものです。
でも、ただ在る事の広大な部屋は、セラピストという個が所有するスペースではありません。個が何かをして創り上げる、能力、特色とは違った領域のものです。
ただ在る事のスペースの中、クライエントは、意識していてもいなくても、追い詰められたり、判断されるのとは違う、内なるスペースの広がりのようなものとつながっていきます。
そのスペースから、クライエントの自然な力や可能性は動き出し、それらは、現実へと落とし込まれていく潜在力も持っているのです。
何に依る事もなく癒しが起こる時の不思議な感覚は、光がそこに在る事にふと気づいたような、論理的な言葉では表現出来ない「そうだ!!」、「分かった!!」といった深い理解の次元が開くような感覚です。それを体験すると、クライエントの内なる強さが発動するのです。
また、在る事の広大さの中では、いわゆるサイキックな何かが起こっていったとしても、あたかも柔軟な技術のように、あるいはその時々に訪れるギフトのように、自然な流れとして扱われてもいくでしょう。
私達は、第1〜第3の次元の中で、水平的に何かをしようと、何かに到達しようと戦ってしまいます。でも、身体も、感情も、自己イメージも、思考も、それらは移り変わっていくものであり、時にはポジティブで、時にはネガティブで、そのようにある事は全く自然で、悪い事でも駄目な事でもなく、あたりまえのものです。
ただ在る事のスペースに触れて、そういった下位の次元の変化していくものを見守り、ハートでそのままを抱きしめていくと、現実の人生は、より自由に、幸せに、生き生きとしてくるでしょう。
マウントフジフラワーエッセンスを使って、宝くじが当たったりラッキーな事が起こったり、予想外の展開があったりといったフィードバックを、よく頂きます。マウントフジフラワーエッセンスの作用の特徴のひとつとも言える、動きの次元で起こる不思議な現象や変化は、何気なく感じる変化と同様、凝縮して表現された象徴的な姿であり、現象として降りてきた雛型のようなものです。
その変化を受け取る事を楽しみ、同時に見守っている事で、人生の広い領域で、等身大の変化へと、更に開いていけるでしょう。
マウントフジフラワーエッセンスがワークしているのは、現象のポジティブネガティブといったものが「現われる前」なのです。そこは、変化していく現象の光を追い求めたり、動かされ続ける事から自由である、内なる眼をノックするのです。
(つづく)
《エネルギーボディー(サトルボディー)とチャクラについて 第81回目の原稿より 第6身体(コズミック体)―6》
マウントフジフラワーエッセンスからみたエネルギーボディー(サトルボディー)、エネルギーワークをテーマに、今回も、第6身体(コズミック体)についてのお話が続きます。
第6チャクラの次元で「見る事」とは、気づき、観照、ただ在る事。
あたかも肉眼のように、第6チャクラで様々なものを見ようとすると、色々なところに光のスポットライトが移動し、エネルギーが使われる為、エネルギーが散漫に漏れ出して、枯渇していくような感じになってしまう事があります。
小さな細胞から、原子から、感情から、思考から、チャクラから、前世から、カルマから、聖なる存在から、銀河から、宇宙から・・・。大きな単位のもの、小さな単位のもの、個人的なもの、集合的なもの、過去のもの、未来のもの、外のもの、内のもの、低位のもの、高位のもの、右のもの、左のもの・・・。
スポットライトの光は、あちこちへとあたり、変化していきます。光をあてる対象は、多彩で無限ですし、肉体を持ったままでは到達出来ない次元から物質界の日常的な次元迄、上昇も下降もするでしょう。でも、対象は変化していったとしても、見る対象によって動かされているという事、「見る事」の水平的な姿勢に同化している事に、変わりはありません。そんな状態の時には、くつろぎや沈黙の不在として、何かが違うような、充分な居場所のない感覚を感じるかもしれません。それは、対象に巻き込まれているという、シンプルなサインです。
そんなふうに第6チャクラのサイキックな使い方をしている場合、リーディングすると、第6チャクラの範囲が狭く、前へと飛び出している状態になっている事があります。
あるいは、日常的にこういった使い方をしているのなら、様々な事をしているのに人生も自分もなかなか変わらないと、悩んでいる事もあるかもしれません。
見る対象が何であれ、ある種三次元的に低位から高位へと見る視点が変化していく事は、興味の対象の変化であり、第6の次元の「見る事」の変容とは違ったものです。
内側の事であったり、高次元の事であったりと、複雑で壮大になっていったとしても、対象を移動して見る事は、第6チャクラの可能性である「見る事」の次元のシフトとは異なるものなのですね。
否定や肯定は、私達が、スポットライトがあたっている対象に同化した時、部分を選んだ時、起こります。
私達が何かを選択する時、そこには、上昇であれ下降であれ、拡大であれ縮小であれ、上下、内外、大小といった部分への揺れ動きがあります。
第6チャクラの「見る事」は、対象を見る事から退いた状態、というよりも、そんな見る事が起こっていると同時に、移動しないところに在る事だと言えるのでしょうか。そこでは、対象を見ている事も、見ているのですね。
気づきの「見る事」には、下位の次元の否定もなく、闇への否定もなく、抑える事もなく。そこは、対象といった部分や、スポットライトの内と外の淵のようなものがないところです。
・・・それは、選ぶ事のない頂点に在る事であり、揺れる事のない全体です。
選ぶ事のない頂点の体験がない時、光をあてていく対象は、数の世界に住んでいるかのように、膨大で無限になります。だから、変化し続ける対象の中から何かを選び、それを見る事に、何年も、時には、何世もかける事もあるかもしれません。創り出された複雑さや難解さの中にエネルギーが収縮し、その内に、可能性を小さく固めてしまう事もあるでしょう。
でも、それもまた、OKです。何故なら、第6チャクラの「見る事」は、同化と横一列にあるものではなく、それらによって、損なわれたり影響されたりするものではないからです。その潜在性は、ただ、今は眠っているだけなのです。
通常、スポットライトが当たった先に同化する事で、私達は安心します。それに対して、第6チャクラの「見る事」は、それらのたくさんの部分に依る安心から、拠りどころのない自由さへと、私達の眼を引き離します。
確かさをもたらす持物や支えを失くしたような、この不確かで、でも自由になって広がるような新しい感覚は、新しい次元への眼を開きます。
それは、人よりも多く知る事を通してはたどり着く事のない、「見る事」の本質的な体験です。
観照の次元に在る時、たとえスポットライトがせわしなく動き続け、対象が変化していったとしても、同時に、違った次元での大きな安定のようなものの内に在るとも言えるのでしょうか。
確かな持物を手放し、個がより大きなものへと消えてしまって、もっと広大な、在るという感覚に触れているような。
マウントフジフラワーエッセンスの講座で、セッションでのセラピストの在り方について、基礎講座の時から、受講者の方々に何度も伝えている事があります。
それは、不確かさ、拠りどころのなさに留まるという事。そして、知らない姿勢でいる事。
判断や比較による確かさを求める縛りと戦わず、それとは違う次元の生まれたてのシンプルさに戻っていくのに、いわゆる特別な能力は、あってもなくても関係ないものです。大切なのは、それを超えたところで「見る事」です。
この在り方は、講座の回を重ねるごとに、育まれていきます。長い間親しんでいなかったこの在り方を自分自身に許してあげる事に、最初はとまどう方もおられます。そんなとまどいもそのままに許しながら、選ぶ事のない気づきに在って、選んだ先への同化から自由な、自然発生的な共鳴からの行為、動きが生じる時の感覚を、体得していくのですね。
実際、不確かさにくつろいでいる事は、私達が、より自由で、くつろいだ人生を生きる鍵であったりもします。理由や依存のない、外側に左右されない、大きな安心、くつろぎ、信頼の次元を、この不確かさの中で体験したりするんですね。そこでは、これ迄慣れ親しんできた幸せや安定の探求の次元も、自然とシフトしていきます。
そして、永遠の現れでもある様々な現象や行為を、愛おしさをもってそのままに抱きしめるのは、天と地の両方とつながっているハートです。
天だけであるなら、いつか地に戻る時が来るかもしれません。地だけであったなら、いつか天に焦がれる時が来るかもしれません。
もし、そこに、ハートがなければ・・・。
(つづく)
《エネルギーボディー(サトルボディー)とチャクラについて 第82回目の原稿より 第6身体(コズミック体)―7》
マウントフジフラワーエッセンスからみたエネルギーボディー(サトルボディー)、エネルギーワークをテーマに、今回も、第6身体(コズミック体)についてのお話です。
地上の第1身体(フィジカル体)からスタートし、地上の次元から飛翔した第5身体(スピリチュアル体)から更に第6身体(コズミック体)についてのお話になってくると、最初と比べて、内容だけでなく、文章から受け取るエネルギーも随分と変わっていっていると感じている人は、おられるでしょうか。それぞれの話を書く時には、どうしてもそこに共鳴してしまうので、感じが変わっていってしまうのですね。
人によっては、地上から飛翔した普遍的な次元に共鳴すると、ある種、抽象的で、思考がくるりと飛んでしまうような感じがするかもしれません。同時に、新しい広がりのようなものや、長く忘れていた何かや、核心のポイントに触れようとしている感じがする事もあるでしょう。
また、地上の領域に留まって普遍的な次元を想像するなら、地上的な人間味や温かみのなさとして、感じる事もあるかもしれません。
これらのどれも、下位次元との振動の違いを、どこかで感じ取っているからだと言えるでしょう。
第6チャクラの「見る事」へと開かれると、地上の二元的な世界で見る対象への同化、例えば、感情的に反応したり、特定の考えの枠から行動したり、原因や結果といった時間軸の世界で一喜一憂するといった、それぞれの動く対象に、エネルギーが縛られる事はなくなるのです。
そうすると、下位の次元では確かだ(確かであって欲しい、確かなものを手にしたい)と思っていた地上界での支えが、確かなものではなくなります(実際、時や状況と共に変化していく地上界の支えは、確かなものではないのですが)。また、自分だと思っていた様々な領域の確固たるものが、自分そのものではないと気づきます。
それは、光があたった特定の部分に同化する事から離れ、動きや変化を含めた全体を包んでいるような感じであり、個としての自分の枠が、もっと大きなものとしての存在に、溶けてしまったような感じです。
この、地上の次元とは違う存在感を、どう表現していいのでしょうか。地上の変化と揺れ動きの世界に属しながら、限りなく全体である感覚を体験すると、恐い時でさえ恐いものなし、とも言えるかもしれません。
それは、地上の変化と揺れ動きの世界がどんなに激しく動いていても、決して、それらによってブレたり、損なわれたりする事のない、全体で永遠のような、大きな大きな次元です。
部分への同化から自由なところで「見る事」を、地上の眼は、人間味や面白味がないのでは?と、思い描くかもしれません。でも、本当は、執着という引力で動かされる先に同化していないからこそ、そして、執着する事そのものにも同化していないからこそ、地上の変化していく不確かな生を、軽やかにおおらかに、楽しめたりするのですね。
また、よく起こりがちなのは、物質的であれ霊的であれ、自由さや確かさを、下位のエネルギーボディー(サトルボディー)の次元で実現しようと追求してしまう事。次々とやり続けても、これは“失敗”します・・・。
マウントフジフラワーエッセンスには、この「見る事」の次元を揺さぶるという特徴があります。プロセスが自然に起こるならば、徐々に、普遍的な次元を刺激していくでしょう。
マウントフジフラワーエッセンスのこういった特質から、最初に求めていた願いや変化が重要な事ではなかった自分に気づいたり、物事に囚われなくなったり、視野の広がりによってブレなくなったり、人生観や世界観が変わったりといった、深い気づきの体験のフィードバックを頂く事が多いのではないかと感じています。
その半面、使用過程の初期に、何かを象徴する雛型として、予想外の事やラッキーな出来事が自分や周辺の人々に起こるという特徴も、興味深い事です。そこから先のプロセスに進んで行ったなら、違う層で、新しい発見との出会いがあるかもしれません。
また、使用過程の初期以前に起こる、受講生や使用者の方から、よく「先取り」とか「先取り現象」と表現されるような、興味深い働きかけもあります。それは、マウントフジフラワーエッセンスを使う事を決断すると、実際に使用する前から、既に象徴的なプロセスや変化が始まっていた事に気づいたといったフィードバックです。
マウントフジフラワーエッセンスの講座では、意識していてもいなくても、実技のスペースの中に入る事で、参加者は、気づきの次元に徐々に共鳴していきます。
だから、マウントフジフラワーエッセンスセラピストのセッションを通したヒーリングは、リーディングされたマウントフジフラワーエッセンスの作用だけではなく、そのスペース、エネルギーフィールド全体だとも言えます。それは、セラピスト自身の力でもない、それを包むもっとダイナミックな全体です。
そこでは、前回も書いたハートの存在が、鍵ともなります。
天の次元に開いていながら、肉体を持って地の次元に納まっている事は、高い次元だけでは成り立たたないのではないかと思います。天と地を結ぶ、第4チャクラがあるからこそだと。
永遠から形や色が生じる事そのものへの愛おしさは、天への上昇に開かれながら、地から完全に断たれていない場所に触れている、ハートの次元で見る事が出来ます。それは、それぞれの個性やユニークさへの愛よりも前の、根っこでは個別や差別がない事を知っている、生じて存在している事の、そのものへの愛のようなものです。だからこそ、次に現われる個性を尊重するのです。
古今東西でよくある、神、存在が愛であるといった体験は、そうであると感じますし、また、その様々な体験のいくつかは、天へと飛翔しようとしているハートの層の体験であるとも感じています。
こういった体験を、過去に、宇宙飛行士の人もしたと言われています。私達の肉体が、宇宙飛行士のように宇宙に迄行くのは難しいですが、地上の高い場所に行く事なら、それなりに出来ます。
地上であったとしても、高い場所に行った時、人によっては、こういった次元が開く事があるでしょう。地上を見下ろす、限りなく空に近い場所で。
第5身体(スピリチュアル体)についてのお話の際、第5身体(スピリチュアル体)の回からは、個人的な体験からのお伽話のような、主観の世界として読んでいって頂ければ、と書きました。個を超えていく次元を、個人的体験とするのも何だか変なのですが、言葉や個人の枠を前提に、第6身体(コズミック体)についてのお話も読んで下さいね。
(つづく)
《エネルギーボディー(サトルボディー)とチャクラについて 第83回目の原稿より 第6身体(コズミック体)―8》
マウントフジフラワーエッセンスからみたエネルギーボディー(サトルボディー)、エネルギーワークをテーマに、今回も、第6身体(コズミック体)についてのお話が続きます。
下位の動きの次元から、第6チャクラの「見る事」へと静止すると、下位の次元の動きに巻き込まれる事がなくなっていきます。前回書いたように、それを下位の次元から見上げると、人間的でない感じや、生きていない感じを想像してしまうかもしれませんが、それとはちょっと違う感覚です。
「見る事」の次元は、起こっている事、形となる事、現われる事のもっと前に、もっと前から、在る大きなものです。言わば拠りどころのない安定だからこそ、同化している対象に縛ばれたり、依存したり、執着したりする事なく、地上のギフトを受け取り、楽しんだり出来るのですね。
人がこの地球に存在するようになってから、長い年月が経っています。昔の人々と比べて、マインドはとても複雑になり、環境も変化しています。でも、この地上の動きの世界にいて、私達のこころが願う事というのは、昔も今も、そんなには変わっていないような感じも受けます。
例えば、
健康である事。
安全で、守られている事。
心地よい環境を持つ事。
愛情を感じ、共感し、交流する事。
より良く、より高く、より多くの可能性を追求する事。
承認される事。
受容される事。
環境、体調、人間関係、その時々によって、優先するものは変わっていきますし、その基準も上下しますが、これらが脅威にさらされる事なく、ずうっと安定し続けてほしいと、私達は望むんですね。
そして、永遠の安定という願いは叶わない事だと認識したなら、別のところに、永遠に変わらぬものを見い出そうとしたり、対極のものへと眼が動く事もあるでしょう。時には、地上の温かで人間的な願いを、脇に置いてでも。
地上的な事であったとしても、スピリチュアルな事柄であったとしても、その目線は、二元性の次元の中で、振り子のように動き続けます。
恋愛であれ、仕事であれ、霊的探求であれ、最初にそれらを動かすものは、下位の次元の、人間味ある欲求、渇望だったりします。
だからなのでしょうか、地上的なものから霊的なもの迄、私達の願いを刺激し、扱っているたくさんのものが、この世界には溢れています。
俗っぽいモノでも、ゴージャスで稀有なものでも、ドラマティックな体験でも、高尚な知識でも、特別な力でも、高い霊的役割でも、自分自身であれ他者を通してであれ、何かを獲得すると、私達はそこに同化し、“分かった”ような感じがして安心出来るのです。安心に留まりたい、人間的な私達がいるのですね。
第6チャクラの「見る事」の理解は、この“分かった”とは違ったものです。そして、これらに同化する事がない為、これらを否定するものでもありません。
私達の内奥には、この“分かった”を超えた、「見る事」への渇望があるのではないかと思います。それは、この世界で得られる束の間の安定を超えた、足し算や引き算で獲得出来るものを超えた、永遠の大きな安心に抱かれるようなものなのかもしれません。そこでやっと、私達は、安定を求める長い旅への同化から、永遠の我が家の広大さを感じ始めるのかもしれません。
二元性の中で揺れ動き、時空と共にぶり返しのある一時的な安定の次元で、どこにどれだけ穴を掘り続けても、二元性を超えたところにある安心と同じものは、見つからないのですね。
上位の次元で言うところの次元が上がるという事は、地上の感覚のように、あるいは下位の次元のように、階層的に上がっていくかのような上がり方とは、ちょっと違うと感じています。ハートから上は、別の“上がり方”をするんですね。下位と同じような段階的なものであるなら、そこに階層や二元性に基づいた何かがあるなら、それは、下位のどこかの次元からの理解であるというサインなのかもしれません。
複雑になったとしても、気持ちのよい浄化や解放があったとしても、天へのシフトとは異なるものなのです。
複雑さ、アップダウンの繰り返しは肉眼の眼を惹きますが、水平的であり、第6チャクラで「見る事」からは、未だ遠ざかっています。
何かに渇望している時、まず、求めている対象から、求めている元を見ると、複雑なものが、シンプルなものに見えて来る事があります。ストレートで、スッキリとしてきます。
とりわけスピリチュアルエゴは、複雑化するのが大好きです。時には、何世にも渡って。でも、元をたどれば、スピリチュアルな欲求も、とても人間的でシンプルな欲求が、核にあったりする事もあるでしょう。
そんなふうに、求める事を通して得たがっているものを素直に観察する事もまた、第6チャクラの機能のひとつです。
そして、人間的で地上的でシンプルな欲求を、ハートでシンプルなままに抱きしめ、そのままを許していってあげると、凍りついた信じ込みが溶けて、動けるようになっていきます。
天の次元へと飛翔するには、地の次元で複雑にしてしまった重荷を脱ぎ捨てて、エネルギーが身軽になる事が大切です。そして、そうしたとしても、地とのつながりは絶たれません。何故なら、私達には、ハートの次元があるから。
マウントフジフラワーエッセンスの講座では、「見る事」の次元を体得していきます。
様々な次元や事柄を扱いながらも、とらわれや同化の引力圏外、「見る事」の気づきにセラピストが在るという事は、二元性の中でNOにも揺れ動くYESとは違う、ただ在る事の全面的な受容だとも言えるのかもしれません。そしてそれは、何かによって揺れ動く事の次元にいないからこそ、肯定や否定や戦いや深刻さがなく、沈黙、自由さ、くつろぎがあるのです。
クライエントの固まって凍った同化の目線に同化しないこのスペースは、クライエントの目線の自由さと柔軟性が開くのを、微細に揺さぶります。それが、マウントフジフラワーエッセンスの作用の特徴である、世界観や人生観の変容、深い気づきの体験をもたらす応援にもなっていくのだと感じています。
技法が生じる前のこの在り方の方が、実は、大切であったりするんですね。まずは在り方があって、そこから、技法という動きが生じてくるのですから。
動きが生じる前には、動きの中心には、動きの次元を超えたところには、動いて変わる事のない静止、沈黙がいつもあるのです。
(つづく)
《エネルギーボディー(サトルボディー)とチャクラについて 第84回目の原稿より 第6身体(コズミック体)―9》
マウントフジフラワーエッセンスからみたエネルギーボディー(サトルボディー)、エネルギーワークをテーマに、今回も、第6身体(コズミック体)についてのお話を続けていきましょう。
第6身体(コズミック体)についてのお話なのに、主に第6チャクラのお話が多くなっていますが、それには、いくつか理由があります。
この連載の当初から、上位次元が来た時、どう書けばいいのかなと思っていた事や、書いていいのかというのもありますが、実際的な側面としては、第6身体(コズミック体)は、個人が“何かをする”といった次元のものではないので、エネルギーワークをテーマにした時に、書きにくいという事もあるのです。
また、エネルギーボディー(サトルボディー)ではあるのですが、文章として表現する事が本来は出来ない、エゴの次元とは違う“これ”を、エネルギーボディー(サトルボディー)とひと括りで説明してしまっていいのかといった感覚も、個人的にはあったりします。
・・・といったような感覚も味わいながら、今回は、第6チャクラの「見る事」の次元とエネルギーワークについて、書いていきましょう。
エネルギーワークには、一般的に、大きく分けるとヒーリングとリーディングの働きかけがあり、それぞれにも、様々なアプローチの仕方があります。中でも、チャクラ、エネルギーボディー(サトルボディー)という概念を前提にしたアプローチは、世界中で数多く行われています。光、音、色、香、形を媒体にしたものも、広い視野で見ていくと、この概念に含んでいけるものだと言ってもいいのかもしれません。
チャクラやエネルギーボディー(サトルボディー)に段階的に働きかけていこうとした時、そこには、多彩な技法の可能性、選択肢がある事が、見えてきます。
チャクラやエネルギーボディー(サトルボディー)を概念としたアプローチには、個々のクライエントに働きかける際、その状態に寄り添った柔軟な対応、オプション的なワークがやりやすいという利点があります。セッションの現場において、今、目の前のクライエントにセラピストが出来得る最善の方法を、創造的に広げていく事がしやすいのです。
逆に、特定の技法を、動かせない決まったルールとして、今、目の前で生きて変化しているクライエントよりも優先してしまうと、セッションが深いところに届かないし、広がってもいかないでしょう。
ヒーリングであれリーディングであれ、エネルギーワークの基本的な仕組みや機能を体験的に体得すると、様々な種類のエネルギーワークに触れた時、それがどのような切り口で、どんな次元に作用するのか、どのようなところに意識を置いてなされているかが、すぐに見てとれるようになっていきます。
だから、エネルギーワークは、深いところでは、ある意味シンプルで簡単だとも言えます。それは、根本を理解すれば、そこから、無限のバラエティが創造され、現われ出て来るような感じです。
大切なのは、目の前のクライエントを、セッション全体を、揺れない次元でありのままに観察しながら、同時に、技法を自由に柔軟に動いていくという事です。
この、動かない次元、動く次元が逆転していると、狭く、事務的で、活きていないセッションになってしまうかもしれません。
また、部分に入り込んで対象と同化してしまうと、問題は、次から次へと見つけられるものです。問題捜しが、どんどんうまくなっていくんですね。そうすると、ヒーリングが深い次元へと機能しにくくなり、二元性の中でいったん鎮まり、またぶり返すといった動きから、抜け出しにくくなります。
でも、だからといって、いきなり高位から働きかけても、機能しない事もあります。まずは部分から入っていく事で、最終的に、クライエントの気づきが広がったりもするのです。
つまりは、第6チャクラの「見る事」の動かぬ次元に在りながら、動きに参入していく事が大切なのですね。
メソッドを創造的に広げていけるエネルギーワークではありますが、大切な根本は、技法ではなく、意識の在り方(意識の次元の置き方)、チューニングの仕方であると感じています。
前回書いた、技法という動きの次元が生じる前の、動いたり変わったりする事のないところ・・・。その中心の深みには、技法を超えたものがあるのです。
マウントフジフラワーエッセンスの講座でも、技法の背後にある次元を体得しやすいように、基礎講座の初回から、段階的に、様々な方法を駆使しています。そこに入っていく直接的な方法はないのに、その次元を体験するドアとなる方法を模索し、言葉で言えないものを言葉で説明しようと試みたりするんですね。
でも、体得するその時は、動きや言葉ではないところ、その狭間であったりします。
興味深い事に、受講生の方が、難しくて大変だといった先入観なく、その次元の振動に自然と合わせていったりもします。基礎講座で作った基盤作りから、プロ養成講座では、自由さへのプロセスが更に進んでいきます。勿論、そこには、傍らで寄り添う花のエネルギー、マウントフジフラワーエッセンスのサポートもあるからでしょう。
もし、これが固まった技法のノウハウの次元だけに意識を集中していたなら、深い体得を、すごく長引かせてしまうのではないかと感じています。
(つづく)
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